青春の感動との再会                   
 
 最近、若い頃に感銘を受けたある本に再びめぐり会うことが出来た。粕谷甲一著「出会いとふれあい」(新世社)である。題名には「一日本人のキリスト理解の道程」と「時を越える思いでの秘義」という2つの副題がつけられている。正確に言うと、私が学生時代に読んだ同神父の著書は既に絶版になっており、本書は新しい本なのだが、昔読んだ「出会いまで」と「新しい歌」の内容がほとんどそのまま含まれているようであり、さらにそれ以降の著者の「道程」が記されていた。
 振り返ってみると、私はすんなりと信仰に入れた者ではなかった。「確かなもの」は実証可能な自然科学にこそ求められるものだと思っていた自分には、「科学」と「信仰」の関係がいつも気になっていた。自分の信仰が単なる思いこみでなくて「確かなもの」であるという保証あるいは確信はどこに求めたらいいのだろうか。当時既に第二バチカン公会議は終わっていて、教会の中に新しい息吹が感じられたが、中学三年で洗礼を受けたとき、決断に全く迷いがなかったわけではなかった。高校、大学と進み、「科学」と「信仰」の狭間に漂いながら、岩下壮一神父の「信仰と理性」などを救いを求めるような気持ちで読んだことが昨日のことように思い出される。粕谷甲一神父の「出会いまで」や「新しい歌」に出会ったのも丁度そのころだった。粕谷神父は第二バチカン公会議の指導的な神学者の一人であるカール・ラーナーに師事して神学を学んだ方であるが、その後たどられた道はアリの町、海外青年協力隊、難民センターと、むしろマザーテレサのように、社会のただ中に身を置いて、人々と共に苦しむ姿勢を貫く中に“無名の第三者”を見いだしていく、というものだったと思う。本書全体を通して深く流れるモチーフは、現実を鋭く、しかし暖かく見つめる眼差しと、時の流れに逆らうことなく、かつまた流されることなく真実を求めて人と共に苦しみ、悩む姿勢である。
 「・・このような光や香りとの出会いを味わう方法に、人間との出会いを通じてという間接法の人と、直接光そのものに出会う人があるように思われる。」粕谷神父は、明らかに自分は前者であって、人との出会いの中にその出会いを支えてくれる“無名の第三者”を見いだす、と述べている。さらに内容に立ち入る紙幅がないが、三十年を経て再び出会ったこの本は、私にとって放蕩息子を無条件で暖かく迎えた父親のように感じられたのである。
 「人は努力する限り迷うものだ。しかし、最後まで努力する者を神は救うことが出来る。」(ファウスト)