北大での1O年間を振り返って

 

 当薬学部に助手として赴任するために、初めて札幌の土を踏んだのは、10年前の昭和55年の414日だった。留学先のスイスはバーゼルから、モスクワ−成田経由で北大に直行した。神奈川で育った私には、4月も半ばという時期に、構内の所々にまだ雪が残っていたのは新鮮な驚きで、大変印象に残っている。以来、5,6月の若葉、秋の紅葉、冬の雪景邑など、四季折々の美しい構内の風景と、恵まれた研究環境の中で、自分なりに充実した日々を遇ごすことができた。これも石井信一先生をはじめ、同僚諸氏や薬学部の多くの方々のお陰と感謝している。気がついてみると丁度10年である。この機会を借りて、北大での10年間を振り返ってみたいと思う。

 

<出会い>

 石井信一先生に初めてお会いしたのは、赴任の前の年(1979)10月だったかと思う。石井先生は、その年、ヨーロッパとアメリカのいくつかの研究室を訪問するご旅行の途中で、私がポストドクをしていた、バーゼル大学(スイス)のビオツェントルムに立ち寄られた。同研究所生化学都門でコンカナバリンAの細胞に対する生理活性を研究していたバーガー教授と生物物理化学部門のエンゲル教授、それに同部門のゼーリッヒ教授の所に留学しておられた阿久津秀雄さん(現、横浜国大工学部)に会われるのが目的だったのではないかと思う。石井先生はそこで、当時進めておられた一価単量体コンカナバリンAのお仕事について議演された。その日だったか次の日だったかに、私のボスであったエンゲル教授を尋ねて来られ、その時に初めて親しくお会いして、当時大学院の学生で私の共同研究者だったチョップ(Juerg Tschopp;現在、免疫学の分野で活躍している)と一緒にピオシンRについてお話を伺ったことを覚えている。私は、同研究室で、T4ファージ尾部の試験内再構成の仕事をしていたのだが、初めてピオシンというものについて知り、T4ファージの尻尾と同じ形態で収縮性の尾鞘を持つということで大変興味深くお話しを伺ったものである。さて、その晩は、エンゲル教授が石井先生の接待をされるはずだったのだが、風邪をこじらせて熱を出され、私に、代わってその晩おつきあいするように言われた。そこで私共のアパートに来ていただいたりして親しくお話を伺う機会を得た訳である。その時に、就職を探しているのでよろしくお願いします、と申し上げたように思う。北大で今、助手を探しておられる先生がありますから、帰ったら話しておきましょう、とおっしゃったのだが、それがご縁で翌年、先生の教室に呼んでいただくことになるとは夢にも思わなかった。エンゲル先生があの時、熱を出したりされなけれぱ、今ごろ、まだヨーロッパかアメりカのどこかを放浪していたかも知れない。

 スイスに行く前は、アメリカは西海岸のオレゴン州立大学に、学生の身分で留学していたのだが、北大に来ることになってから、しばらくして、そのオレゴン州コ一ヴァリスでお世話になったFさんから、一通の便りが届いた。「北大に赴任されるとのこと、従兄のSから聞きました。おめでとう。」ということだった。Sさんとは、実吉峯郎先生である。実吉先生の従兄にあたられるF氏は地球化学の分野で活躍しておられるが、私がオレゴンにいた頃、同州立大学でポストドクをしておられた。ある時、当時バンクーバーに滞在していらっしゃった実吉先生がコーヴァリスのF氏を尋ねて来られ、同じ生物化学の分野だから、ということで紹介していただいた。「こちらで学位を取るのは大変でしょうが、是非頑張ってください。」と、励まして下さったことを覚えている。その実吉先生と同じ北大、しかも薬学部に赴任することになったのも奇遇であるが、同じ日付を持って札幌を後もすることになったのも、奇遇である。

 

<研究>

 さて、北大に来たら、研究のテーマは全く変えなければならないだろうと覚悟していたが、ビオシンRとの関連でバーゼルで始めたT4ファージを続ける事になった。研究室では、ピオシン関係の仕事が行われていた事や、故畔上先生がφx174ファージをやっておられたお陰で、必要な道具はほとんど整っていたのだが、いざ始めてみると、アガーブレートひとつ作るのにも最初は大部戸惑ってしまった。というのは、留学先では培地からアガーブレートまでほとんど‘キッチン’の人が作ってくれるので、自分で作った経験がなかったからである。これらのことや、写真撮影、現像、焼き付けなどを親切に教えてくれたのは同僚の熊崎さんだった。もう一つ、覚えているのは、ポリアクリルアミドゲルを作るのに、夏の間は速く重合し過ぎたり、冬になるとなかなか重合しなくなってしまうことだった。その時は、原因が分からなくて大変困ったのだが、バ一ゼルでは空調がきいていて、一年を通して殆ど室温が20℃に保たれているのに対して、こちらでは季節によって室温が大きく変わるためだ、と分かるのにしばらくかかってしまった。

 テーマについては、しばらく試行錯誤した後、結局、収縮性尾鞘蛋自質を中心にやる事にし、それから2年ほど後には同じく尻尾の構造蛋白質であり、リゾチーム活性を持つと考えられたテイルリゾチームも取り上げる事にした。

 修士で筋肉蛋白質アクチン、博士でヘモシアニン、ポストドクで尾鞘蛋自賃とやってきたが、いずれも生物物理化学系の研究室であり、蛋白質の超分子構造の形成やその性質を、熱力学や動力学の面から調べるような研究が主だった。しかし、更につっこんで蛋自質分子間の相互作用の実体を理解するためには、その化学構造の理解が必須であると思われた。幸いにも、蛋白質化学の研究室に来たので、これを機会に蛋白質化学を学びながら、「構造」をやろうと考え、その第一段階として一次構造を調べたいと思ったが、なにぶん分子量が大きく(8万程度と考えられていた)、蛋自質から一次構造を決めるのは問題外だった。丁度その頃(1983年頃)は、DNAの塩基配列の決定が盛んに行われるようになってきた頃で、一次構造を決めるとすれば、それしかないと思われたが、全くやったこともないことであり、当時薬学部で遺伝子をいじつている人は誰もいなかったことと(北大全体でも非常に少なかった)、今からこんなことを始めていつになったら論文が書けるだろうかという不安もあって、大部考えてしまったが、とにかく、石井先生にご相談したところ、塩基配列決定に賛成してくださって、決定法を習うために、札医大癌研の藤永先生を紹介してくださった。一ヵ月ほど札医大に通ってMaxam-Gilbert法を習い、研究室に戻って配列決定を開始した。幸いなことに、ジュネーブにT4遺伝子バンクがあって、そこから尾鞘蛋白質遺伝子の入ったものと考えられるクローンをもらうことが出来て、クローニングの苦労(洒落ではない)はせずに済んだ。丁度、修士に入ってきた中子達史君に尾鞘蛋白質のペプチドの解析をやってもらい、二人三脚で658アミノ酸残基からなる全一次構造の決定を終えることが出来た。なお、同僚の熊崎隆さんが丁度その頃、固定化アンヒドロトリプシンを使って、蛋白質のC末端ペプチドを単離する方法の確立をめざしていたところで、その方法が早速応用され、塩基配列上のC末端に相当する配列が同定できたのは心強かった。今であれば、1〜2年で出来た仕事かも知れないが、結局、3年以上かかってしまった。しかし、一次構造が決まったことによって、その後の研究が大いに進展した。ちなみに、逆相のHPLCでペブチドの分離分析が可能になったのも丁度その頃で、我々の研究にとっては大変タイムリーなことであった、

 ところで、赴任した頃、私が研究室に導入したものが2つあった。ミニスラブゲル電気泳動装置とパソコンである。あの頃(昭和55)、たいていの研究室ではまだ円筒型のゲルを使っており、スラブゲルはあるにはあったが、大型のものだけで高価だった。北大に赴任した同じ年に、アメリカに会議に参加するために出かけ、帰りにオレゴン州立大学に立ち寄ったときにミニスラブゲル装置見て、これはいいと思い、買って持ち帰ってきたのか第一号機だった。それから1、2年後には日本でも市販されるようになった。パソコンの方は、やはりアメリカの研究室で8ビットのTandyが出回り始めていて、是非いつか欲しいものだと思っていたところ、日本でもNECのPC-8001とシャープのMZ80が登場した。とにかく家内を説得して自前でPC-800116万円)を購入し、BASICを勉強したのが事の始まりで、大変なつかしく思い出される。雑誌に載っていた英文ワー一プロのプログラムを利用したり、これを改変して、当時始めていたDNAの塩墓配列決定の為に、“シーケンスプロセッサー”なる配列解断のためのプログラムを作ったりしたものである。もちろん、現在市販されているブログラムなどに比べれば、お粗末なものであるが、十分実用的であり、現在でもPC-98用に書き直したものを時々使っている次第である。

 研究内容ついては省略するが、この10年の間に、テイルリゾチームの仕事をしてくれた中川弘幸君、上記の中子達史、化学修飾法で高次構造とその変化を研究した武田茂樹君、PS17ファージの尾鞘蛋自質遺伝子の塩墓配列を決定した佐々木貴代さん、それに現在、尾鞘蛋白質のミュータント遺伝子の解析をやっている鈴木誠君の、計5人の優秀な修士の学生諸君や、卒研の人達と一緒に研究を進めることが出来たのもよい思い出になりそうである。

 

〈物理・化学・分子生物学〉

 既に述べたように、こちらに来るまでは、生物物理化学の研究室を渡り歩いてきた。物理化学というのは化学というよりもむしろ、物理に近いのではないかと思うが、そういう意味で、あまり、化学の人と親しく接したことが無かったような気がする。物理の人はどちらかというと、原理の方に興味があり、その対象となる物質が何であってもそれほどあまり大きな問題ではない。それに対して、化学の人は、物質自体に興味がある。それと関連して、研究の進め方や、発想も大分違うようだということが、北大にきてから実感された。例えば、ヘモシアニンをやっていた頃は、とにかくまずデータを集める。それからしばらくの間毎日、そのデータをつらつらながめる。そうすると、ある日突然、「あっ、そうか。分かった!」というような具合いに、それまで、ぼんやりと一部しか見えていなかった現象が、霧が晴れたように急にはっきりと全体として見えて来る。したがって、進行中は、ゴールは森の向こうに隠れていて、なかなか見えてこないのだが、ある時突然見えて来るのである。これに対して、構造を決めるというような仕事は、ゴールは走り始めたときから少しずつ見えてきて、終点に近くなるにつれてさらにはっきりと見えて来るようだ。実際には生物化学の分野では、理論的にも方法論的にも、これが化学、これが物理と分けられるようなものではなくて、まさに、境界領域なのだが、同じ様な比較は、生理学と生化学についても言えるだろう。この2つが一緒になると現象が理解できたような気がする。そういう意味で、分子遺伝学は生化学よりも生物物理になじみやすいが、日本では分子生物学というと、ほとんど分子遺伝学になってしまっているのは、蛋白屋としてはちょっと残念な気がしている。なお、ここで“理解する”とはどういうことか、などと論じたくなるが、もう少し、研究歴を積んでからにしようと思う。

 

<学生諸君へ>

 助手という立場で、学生諸君とのつきあいは、学生実習と、研究室に所属する卒研および大学院の人達との交流に限られる。学生実習について言えば、初めの内は自分が全くやったこともないことを教えなくてはならないので、随分ひやひやしたこともあった。それはさておき、やる気のある人や、いい質問をして来る人がいると、学生実習もなかなかやりがいがあると思ったものではある。しかし、実際には必ずしも興味を持ってやっている人は多くないので、質問もほとんどない。そこで、こちらからしょっちゅう質問して回ったが、一部の学生からは大変嫌がられた。そんなことをしていると、いつも思い出すのは、芸大の声楽科に行った友人の言っていたことである。彼曰く、「芸大のピアノ科に入って来る連中は、入学したときには皆、難関をくぐり抜けてきた優秀な学生で、それほど実力の差はないのに、卒業する頃になると、勉強した学生とそうでない学生とで雲泥の差が出来てしまう。」と。

 私自身、できることなら教養からもう一度やり直してみたいと思うのだが、学生のうち、それも学部の学生のうちに、基礎的な勉強をしっかりやっておいてほしいと思う。物理や化学の個々の知識は、必ずしも薬学や生物化学で直接には役に立たないかも知れないが、試験管の中で、あるいは生体の中で、実際に分子がどの様に振舞っているかを考える時に、物理化学的に正しい描像を描いている人とそうでない人とでは、きっとどこかで差を生ずるに違いない。楽器を習ったことのある人はすぐに思い当たると思うが、例えば、フルートを吹くという一つの行為をとっても、呼吸、タンギング、アンブシュール・ビブラート・運指、さらには音楽の解釈など、さまざまな面があり、本当にいい演奏をしたいと思うなら、そのひとつひとつについて十分な訓練を積まなければならないのである。

 

<これからのこと>

 力不足のために、自分の思うようなタイムスケジュールで仕事が進まなかったこと、うかうかしている内に外国でやられてしまったことなど、反省すべき点は多々あるが、石井先生はじめ、多くの方々のおかげで曲がりなりにも、一応のまとまりのある仕事が出来たことは感謝に耐えない。これからも、蛋白質を中心とした生体高分子間相互作用をテーマとして研究を進めて行きたいと思っているが、北大で学んだ蛋白質化学的手法は、いつまでも大切な宝物になることだろう。いろいろ気楽に質問できる人が北大におられるのは、大変心強い。

 もうひとつ、今まで以上に考えて行かなければならないのは、教育の問題である。バイオサイエンスの分野で、本当に実力のある、創造的な仕事のできる研究者を育てるのには、何をどう教えなくてはならないのか、自分でも考え、いろいろな方のご意見も伺いたいものと思っている。

 末筆ながら、これまでの薬学部の皆様のご厚情に感謝し、薬学部の、そして北大のますますの御発展をお祈りする次第である。