細井道子さんの講演を聴いて
 
(細井さんはHAMという難病を患っておられ、下肢から徐々に麻痺し、現在は顎から上しか自由に動かすことができません。肺の機能も低下し、常時酸素を吸入し、夜は人工呼吸器を使用されています。)
 
 中高生会でのお話と10時のミサの後の講演の両方に参加させて頂いて本当によかったと思いました。まずなによりも本当に重篤な障害をお持ちなのに、淡々として明るい表情でいらっしゃるのに驚きました。うっかりすると障害をお持ちなことを忘れてしまいそうでした。ヨブ記のヨブはもっと苦しさをあらわに出している感じがしますね。「どうやって絶望的な気持ちに陥らずに前向きに生きていかれるのか」という質問をした時、私は癌を告知された患者が一般的にたどるといわれているような、精神的な動揺、苦悩から立ち上がるような過程についてお話しになるかと思っていましたら、なんと「イエス様がいらしてくれるからです。」という単純なお答えで、私はうろたえてしましました。私にそんな確固とした信仰があるとは思えません。でも、それはきっと大きな苦しみを通して勝ち取られた現在のご心境なのでしょう。「すべてを捨てることによって自由になる」というのはこのようなことなのかと思いました。自分は捨てられないものが多すぎて到底実行出来ることではありません。もうひとつ頭に去来したのは、「与えることによって豊かになる」というパラドックスです。細井さんは御自分の経験を人に与えられて、そして御自分自身が豊かになられている、と感じました。
 細井さんのお話を自分の人生に生かすとすれば、どういうことが考えられるか、ということを考えてみました。ひとつは、お話を伺ったお陰で、障害を持つ方達への理解を深めることができました。これは障害を持つ方たちに接するときに役立つと思います。また、私もいつ何時突然の事故や発病で体を動かすことができない状態にならないとも限りません。そんなとき、細井さんのことを思い出したら、立ち直るきっかけ、あるいは生きる勇気を与えられそうに思います。
 しかし、少なくとも私は現在は健康な体を与えられ、家族・仕事・趣味など、捨てられないものだらけの中で生活しています。そして与えられている限り、それを今捨てるのではなくて生かしていきたいと思っています。そういう現在の私にとって細井さんのお話はどういう意味を持っているのだろうか、ということを考えたとき、至り着いたのは、「今は捨てられないけれども、何らかの理由で捨てざるを得ない状況になったときに、それを潔く神様にお返しすることができるような心構えで現在を生きていくこと」、という生き方です。現在自分が与えられているものを当たり前と思わずに、一つ一つ大切にし、しかもそれに執着しない生き方、ということです。人は誰でもいつか死ななければならないので、その時になったら、否が応でもすべてを神様にお返ししなければならなくなるわけですが、いつでも必要があればお返しします、という心構えで生きていくことが出来たら、さらに人生を豊かなものにすることが出来ると思いました。細井さんのお話を伺ったお陰でたくさんのことを考えさせて頂きました。あらためてお礼を申し上げます。