「神谷美恵子の世界」                     2004.12
 
 「生きがいについて」の著者、神谷美恵子さんは、私たちの世代にはなじみ深いが、若い世代の方達にはそれほどなじみがないのではないかと思う。「生きがいについて」、「人間を見つめて」などを読んでから30年が経ち、しばらく脳裏から離れていた神谷美恵子という人に、最近、再び心を捉えられている。
 数年前、私の研究室にいたアメリカ人の留学生が日本を離れる前に、私に置き土産として文庫本のマルクス・アウレリウスの「自省録」をくれた。その訳者は神谷美恵子さんで、これは神谷さんの若い頃の仕事である。半年ほど前には出張で成田空港を発つ時に、空港の本屋で偶然文庫本の「神谷美恵子日記」を見つけて手に入れ、機内で読んだ。「生きがいについて」、「人間を見つめて」、「心の旅」などが生まれた背景にある著者の心の遍歴を垣間見ることができた。そして最近、台風23号が関東を通り過ぎた前夜、交通が麻痺する前にと、風雨の中をいつもより早く大学を出て中央林間の駅を通ったら本屋が開いていたのでちょっと立ち寄ったところ、新刊の「神谷美恵子の世界」が置いてあり、すぐに手に取ってみたのである。この本には「アルバム神谷美恵子」として多くの写真が掲載されており、講演録、年譜、神谷さんの詩が掲載されているほか、「神谷美恵子を語る」として加賀乙彦、鶴見俊輔などの著名人の他、親しかった友人や影響を受けた多くの人達が随想を寄せている。
 神谷美恵子さんは19歳の時(昭和8年、1933年)、津田英学塾本科在学中に、叔父が多摩全生園に話をしに行かれたときにオルガン奏者として同行し、初めて見たハンセン病患者に大きな衝撃を受けた。そして、医学校への入学を望んだが、両親や津田塾学長の強い反対にあって断念し、同校卒業後、大学部に進学した。しかし、その年、肺結核を患い、軽井沢で療養中、独学でギリシャ語を習得して、「死ぬ前に一度原語で読んでみたいと思っていた」新約聖書、プラトン、ホメロスなどを原語で読んだという。語学に極めて優れ、幼年時代をジュネーブで過ごしたのでフランス語は母国語のようだったらしい。
 大学卒業後、給費留学生としてニューヨークに渡ったときにはギリシャ文学を専攻したが、医学への志止みがたく、ついには父の理解を得て「らいはやらない」という約束で東京女子医専への入学を許され、30歳の昭和19年(1944年)に首席で卒業した。その間、島崎敏樹教授の影響によって精神医学に興味を持ち、東京女子医専卒業後は東大精神科医局で精神科医としての仕事を開始した。しかし、翌年には終戦を迎え、請われて文部省関係の膨大な翻訳を行い、また、GHQとの交渉の際には通訳としての仕事をこなした。これは父の前田多聞氏が文部大臣を辞した後もしばらく続いた。その後、結婚、長男・次男の出産、夫(神谷宣郎氏:後に阪大名誉教授=粘菌の研究で国際的に著名)の阪大理学部への転任にともなう大阪への転居を経て、阪大で研究生として精神医学の研究を開始するが、同時に神戸女学院大学英文科助教授として、初めは語学のみ、後には精神衛生学も担当して教育にあたった。そして、昭和35年(1960年)、学位論文「癩に関する精神医学的研究」によって大阪大学より医学博士の学位を授与された。この間、長島愛生園へ月2〜3回の島通いを続け、面接、アンケート、心理テスト、統計など精神医学的調査を行った。その後は、神戸女学院大学社会学部教授と津田塾大学教授を兼ね、また、長島愛生園の精神科医長を勤めた。なお、神谷美恵子さんは若い頃から「書きたい」という願望が強く、自己の文学への憧憬と医学への志向という両立し難い2つの方向について思い悩むことが多かったという。
 神谷さんはご自分の恵まれた環境、能力に常に負い目を感じていたと云われる。ジュネーブ時代の裕福な暮らしには次第に違和感を覚えるようになったようだし、津田塾の学生達への講演の中で、「恵まれている人は、それだけより多く社会に対して負い目をおっているのではないか」と語っている。ハンセン病の患者に対しても「なぜ私でなく、あなたが」という問いを発せざるを得なかった。神谷さんは医師でありながら、むしろ常に看護の視点・立場から患者に接していたようだ。このような姿勢が、神谷美恵子さんご自身だけの思いでなく、患者もそれを感じて尊敬の念を持って接していた、ということは彼らの証言によって明らかである。ハンセン病の患者で詩人の島田ひとし氏は神谷美恵子さんの死去に際して、「先生に捧ぐ」という詩の中で、次のような言葉を捧げている。
       ・・・・・・・
  「代わることの出来ない私たちとの隔たりを
   あなたはいつも自らの負い目とされた。」
        ・・・・・・・
  「私たちは、今となっては真実にめぐり会うために病み
   病むことによってあなたにめぐりあい
   あなたのはげましを生きることで
   こうして
   あなたとお別れする日を迎えねばならない。」
        ・・・・・・・
 「ハンセン病の治療にあたる」という所期の目標は両親から反対され、やむを得ずそれを受け入れながらも、心の底でいつか実現することを念じながら長い年月をかけてついには実現してしまう、という持続性と勇気と人柄には深い感銘を覚える。晩年は狭心症を病まれ、昭和54年(1979年)に65歳というお歳で亡くなられたのが惜しまれる。ライフワークの「ヴァージニア・ウルフの研究」は未完となった。
 
(みすず書房から「神谷美恵子コレクション」(全5巻)が刊行予定で、第1巻の「生きがいについて」が最近出版されています。)