モスクワ国際会議見聞録    北海道分子生物学研究会会報No.17 1989.11

 

 去る6月19日から24日までモスクワで開かれた国際会議(International Symposium "Molecular Organization of Biological Structures”)に参加する機会を得た。この会議に出席するきっかけとなったのはその2年前のアメリカでの国際会議であった。87年の夏、私は、アメリカはロサンゼルス、UCLAEiserling教授の研究室に2ヵ月ほど滞在して、実験をさせてもらっていた。その間、ワシソトソ州のオリンピアで隔年ごとに開かれているT4ファージの会議に出席し、そこで今回の国際会議のオーガナイザーであるPoglazov教授に会ったのである。同教授のグループは、筆者と同じくT4ファージの尻尾を研究している。その折に、2年後にこういう会議をやりますから是非いらっしゃい、とお誘いを受けたのだが、その時はこれほどすんなり実現するとは思わなかった。旅費は薬学研究奨励財団のお世話になった。一度、バーゼル留学中にポーランドに友人を訪ねて出かけたことがあるとはいうものの、やはり、東欧は私にとって未知の国であり、どんな体験が待ち受けているかが楽しみだった。

 6月19日、モスクワ空港に降り立って、はたと困った。誰かが迎えに来てくれるはずなのに、だれも見あたらない。そうこうしているうちに、男が寄ってきてホテルまで乗せて行ってあげるというので、少し心配であったがとにかくその白タクでホテルまでたどりついた。運転手は、ドルでも円でも結構と言うので、ドルで支払ったのだが、後から聞いた話では、モスクワの人が外貨を受け取るのは違法なのだそうである。とにかく、外貨は彼らにとって大変貴重なのだが(やみ市場で非常に高く売れるのだそうだ)、タクシーで払った金額は法外の値段だったようだ。御用心!実は、私を迎えにくるはずだった人は、空港に来る時間を間違えたらしい。その人は、よほど悪いことをしてしまったと思ったようで、会期中いろいろなところを案内してくれ、帰りには空港まで送ってくれたりした。

 モスクワ市はモスクワ川が丁度S字状に曲がって流れる流域を包むようにして広がっている大きな町だ。車で町を走るとあちこちで相当遠くから見える、星のマークを頂いた尖塔を持ついかめしい大きなビルが目にはいった。この種の巨大な建物が全部で7つあるそうで、いずれもスターリンの時代に建てられたものだと聞いた。モスクワ大学のメインビルディングもそのひとだが、私には何か少し重すぎるように思え、圧迫感が感じられた。帰りに寄ったバーゼルの知人で建築家の人にその印象を話したら、一つの原因は、建物に対称性があり過ぎるからだ、と言う。なるほど、そういえばそうかもしれない。

 モスクワは暑かった。夜は冷えることもあると聞いてセーターなど持参したが、夜になっても蒸し暑く、ホテルには冷房などないので窓を開けて寝るほどだった。町の中は、ゴルバチョフ政権下で、予想以上に自由な雰囲気が感じられたが、その一方で、進行するインフレとモノ不足は相当深刻なようだった。テレビやステレオを買うのに、1〜2年前から予約しなければならないという。

 会議はモスクワ大学で行われ、毎日、ホテルからバスで送り迎えがあった。大学までの道の途中に、バスの窓からガガーリンの巨大な金属製の彫像が高い台座の上にそびえているのが目に止まる。会議への日本からの参加者は、阪大の福井俊郎教授、九大の松田源治教授をはじめ6人。外国人約50人に対し、ソ連からは約250人が参加した。公用語は英語とロシア語で、ロシア語には同時通訳がついていた。会議は、1.エネルギー変換膜、2..バクテリオファージ、3.RNAウイルス、4.サブュニット複合体酵素、5.細胞運動、6.筋収縮、7.蛋自生合成、8.核蛋白質、の8つのセッションに分かれ、5〜6のセッションが同時に進行していたために、必ずしも全容はつかめなかったが、Grunberg-Managoらの蛋白合成やリボソームのセヅションは大変興味深かった。バクテリオファージがほとんどT4ファージばかりで、その外は微生物生態学的な話だったのは意外だった。

 T4ファージのグループは、3日目の午前中に、オーガナイザーのPoglazov教授らのA.N.Bach研究所に招待された。レニンスキー通りに面した落ちついた感じの建物である。生化学者であった初代所長の名にちなんで名付けられたものだが、第2代目の所長がかの有名なオパーリンである。 Poglazov教授は4代目に当たる。彼は、筋肉の分野では歴史的に名高い、ドイツ出身のEngelhardt教授の下で学位を取り、長年その下で仕事をしたそうである。歴代の所長の肖像の掲げられた所長室でPoglazov教授から研究所の由来などの話を聞いた後、実験室で研究室の人々をまじえてお茶を飲みながら歓談した。実験室の設備は割合と整っているように見受けられたが、天秤など、日常的に使う簡単な器具がややオールドファションであるように思われた。ちなみに、科学史で悪名の高いルイセンコもその建物の中で研究をしていたとのことで、その部屋まで教えてもらい、意外と開けっぴろげな姿勢に驚いたことであった。

 会議から時間が経ってしまって、肝腎の学問的な印象が薄れてしまったが、さすがに閉会にあたっての昨年度のノーベル化学賞授賞者であるドイツのMichelの講演は印象深かった。複雑な膜蛋白質複合体である光合成系の精密な構造をX線結晶構造解析によって明らかにし、光合成反応における電子伝達の経路をみごとに解きあかしていた。なお、開会講演はやはりノーベル貧授貧者のイギリスのMitchel博士であった。

 閉会の前日の夜には懇親会が開かれた。ホールには楽団がいてその演奏に合わせてロシアのいろいろな地方の舞踏を人々がわきあいあいと踊っていた。それに合わせて、国際会議の参加者たちも踊りだした。今回のモスクワ訪問で、はじめて認識させられたことは、ソ連という国が、まぎれもない多民族国家であるということであった。この場での音楽ばかりでなく、町を歩くと東洋系、あるいは中近東系と思われる顔によく出会う。ペレストロイカは、一方で必然的にこれらの各民族の独立運動を助長している。そんなことをボーッと考えていたら、アメリカ人のBet tyKut te r さんがFumioも一緒に踊れ、というので、少しゆっくりした静かな曲の時に、意を決して慣れない踊りを踊った。食事の席で憐に座ったのはノボシビルスクから来たという若い女性の研究者だった。しばらくサイエンスの話をした後で、彼女は鞄の中から一冊の本を取りだし、この本は何だか分かるかと尋ねてきた。ロシア語で書かれてあったが、タイトルから座禅の本であることが分かった。彼女は仏教に興味があると言い、日本の伝統的な文化に傾倒しているようであった。私は、彼女にソ連の宗教についての事情について尋ねた。やはり、ソ連の人たちが今一番望んでいるのは、思想の自由なのではないかと思った。その、まだうら若い女性研究者が、何かの拍子に「Life is patience.」と言ったのがなぜか私の脳裏に強く焼き付いている。

 翌々日、モスクワを発って、10年前の留学先であるスイスはバーゼルに向かった。チューリッヒの空港に降り立った途端に、何か故郷に戻ってきたような安堵感を覚えた。もう安心である。ここでは言葉も何とか通じるし、何も心配することはない。バーゼルまでの切符を買って列車に乗り込んだ。安心したせいか、うつらうつらして、目を開けてみると何とバーゼルではなくてベルンではないか!途中で乗り換えねばならなかったのである。なにごとも、目的地につくまで安心は禁物である。