湘南短期セミナー

「マザーテレサに学ぶ」

生きることは分かち合うこと

 

 大変深い内容のお話を時折ユーモアを交えて話して頂き、千葉監督の気さくなお人柄と相まって、あっという間に過ぎてしまった1時間半だった。特に印象に残ったところを振り返ってみたい。

 戦争の世紀だったといわれる20世紀に対して、21世紀は平和の世紀になるだろうと誰もが希望を抱いたが、最近の新聞には、肉親が殺し合う事件や親の児童虐待などの報道があり、世界的にはイラク戦争など報復戦争はとどまるところをしらない。社会全体が病んでいることを痛感させられる。その原因は何かと考えてみると、現代は「家庭のない世界」になったということがその根底にあるのではないかと、千葉氏は問いかけられた。この「家庭の重要性」ということが講演全体に流れていた主題ではなかったかと思う。

 「家庭の崩壊」とは、現在の家庭が外に対して閉じてしまっていることを意味する。すなわち、家庭は「ホテル化」し、「サナトリウム化」し、「要塞化」し、「劇場化」したと言われ、家族が本音で話し合えるコミュニケーションの場でなくなってしまっている。母は家の中心となって安らぎ、喜び、希望を与える存在であり、父の役割はキリストのイメージで象徴される「正義に命がけで生きる」姿である。子供は神の似姿として生まれてきたものであって、文字通り神に供えるべきものである、とマザーは言われる。そのような役割が現代の家庭で果たされているだろうか。問題のあるところには父親の不在が目立つ。それではその反対である開かれた家庭とはどのようなものか。千葉氏は開かれた家庭の一つの例として、マザーの「子供の家」シュシュババンで育った子供達を受け入れる、「国際養子」をドキュメンタリーとアニメーションの映画「いのちを守る勇気」の中で紹介された。

 よく知られているマザーの「死を待つ家」。マザーは路上で亡くなろうとしている人を「死を待つ家」に引き取り、かけがえのない一人の人間として死を看取る。マザーによれば、人間にとって最大の不幸は病気でも貧困でもない。最大の不幸はそのことによって自分が誰からも必要とされないと感じることである。「死を待つ家」は医療活動ではなく、誰からも必要とされていないと感じる人に最期まで大切な人として関わろうとするものである。

 不幸の対極にある幸せとは何だろうか。幸せには3つの段階がある。すなわち、「与えられる幸せ」、「できる幸せ」、そして「与える幸せ」である。マザーテレサは与えることを幸せと考えて生きた人である。もうひとつのマザーの側面は「成熟した人」という側面である。「成熟」には2つの要素がある。ひとつは多様性をみとめ、これを尊敬するということ。もうひとつは奉献である。家族は成熟のパートナーとして機能する必要がある。

 マザーテレサのやり方は、常に組織としてではなく、人と1対1で交わることであり、一人の人間として傍観者でなく、当事者として関わることだった。マザーの活動は組織として広がったのではなく、「母」のように、出会うすべての人と1対1で交わっていく中で広がったものである。

 信仰を持たない人にも「祈り」の意味を分かってもらうために大切なこととして話された3つのことも印象に残った。即ち、自分がここに存在することには多くの人のおかげがあること。両親、祖父母、その両親と、多くの出会いの結果として自分は生まれ、生まれてからも多くの人によって生かされている自分に気づくこと。そこに感謝が生まれる。また、自分に多くのものが欠けていることに気づくとそこに反省が生じる。そしてもう一つは、自分にも何かができるという可能性を信じることである。祈りはそのような気持ちから自然に生まれてくるものであろう、と言われた。

 最後に印象に残った言葉を記しておきたい。

 

「私は乾く(I thirst. ヨハネ19章12節)」(マザーの質素な部屋の壁のいばらの冠のついた十字架の下に記してあった言葉)

 

「あなたがしてくれたことは私にしてくれたことである。(You did it for me. マタイ25章35節)」(千葉氏がマザーテレサの死の知らせを聞いて、翌日駆けつけた足立区の修道院で、祭壇のマザーテレサの写真の下に記されていたもの。)

 

「生きることは分かち合うこと(Living is sharing.)」(本講演の副題)

 

                                               ひろば編集委員(F・A)