「追憶補遺」編集後記
母が御殿場の高原病院に入院する二ヶ月程前の日曜日の午後、いつものように母を訪ね、二人で昔のことなど話しておりました。私は何気なく「お母さん、子供の名前みんな覚えてる?」などと聞いてしまいました。「そうねえ。」と心細そうな母にヒントを与えながら、長兄の英雄から弟の信雄までなんとかたどり着いたとき、母は「みんな私の子だったかしら。」と聞くのです。私は、「お母さんが生んだのは僕と信雄。恭子姉さんから上は前のお母さんの子供だよ。」と申しますと、母は「でも私は、あんたたちとほかの子と区別なんかしたことなかったのよ。」と言いますので、「そうか、だから兄さんも姉さんもみんな今でもお母さんのことをとても大切にしてくれるんだね。」と申しますと、母は何も言わずにちょっと恥ずかしげに嬉しそうな笑みをたたえておりました。
その母が御殿場病院に入院後 しばしば「鎌倉の家にいる小さな子は元気かしら?」と聞き、その子のことが気になっているようでした。しかし、母にそれが誰かを聞いても思いだせないようで、私も気になりながらそのままになってしまいました。しかし、今回、中野ノブ子様がお書き下さいました、「邦彦さんと有坂先生」を読ませて頂きまして、あれは邦彦のことだったに違いない、と思うようになりました。私は邦彦についての記憶はありませんが、母から「お利口だった邦ちゃん」について何度か聞かされたことがあります。
「追憶」をお読み頂いた方から思いがけず母の思い出を綴ったお手紙などを頂き、私どもが余り知らなかった母の別の面を教えて頂きました。近過ぎて見えなかったものに気づかせていただきましたが、それにもまして、母がなんと多くの方々に支えられて人生を歩むことができたことか、ということに気づかせて頂きました。これらの文やお手紙を読ませていただくうちに、これをまとめなければ「追憶」は完成していないと思うようになり、「追憶補遺」として再び小冊子にまとめることに致しました。また、何人かの方にはこの機会にお願いして書いて頂きました。唐突なお願いに快く答えて下さいました方々に心より御礼申し上げます。
文をお寄せいただいた方々以外にも多くの方々のご厚意を頂きました。山本治夫氏には祖父松沢敬譲の「挽歌」の読み下しと解釈を、河島正光氏には「示児」の読み方をご教示いただきました。いずれも従妹の堺万里子の紹介によるもので、この場をお借りして堺万里子にも深くお礼を申します。
最後に、晩年の母を長きにわたって世話してくれた弟の信雄に心から感謝します。
(文 雄 記)