五十八年前の一枚の絵手紙
有坂文雄
 
 私の手もとに、黄ばんだわら半紙に描かれた一枚の絵手紙がある。横向きのわら半紙の左側には色鉛筆で描かれた小学校の授業風景、右側には鉛筆書きの左記の手紙文が書かれている。
 
『ありさかさん、おびょうきはいかがですか。わたしたちは、ありさかさんがいつくるかいつくるかまっております。一人でもおやすみがいるとさびしくて、さびしくてたまりません。はやく、おびよきをなおして学校にきてください。おからだをたいせつに。
さようなら
 ありさかさんへ  こはたより』
 
 これは昭和二十三年に鎌倉市立第一小学校二年生だった木幡弘子さんが同じクラスの兄邦彦宛に書かれたもので、木幡さんのお姉様で母の教え子でいらっしゃる中野ノブ子さんを通していただいたものである。
 邦彦は父の先妻の三男で、この手紙が書かれた時点で小学二年生だったが、それから数ヶ月後に結核で他界した。私にはこの兄の記憶はないが、母から「お利口だった邦ちゃん」について何度か聞かされたことがある。木幡さんはこの絵手紙を六十年近く、養女に行かれたときも、結婚されたときも他の貴重品の入った小箱に入れて持っておられたという。
 私の母は昭和二十二年、十年以上勤めた鎌倉女学院を辞め、妻を亡くし五人の子供をかかえて困っていた父に嫁いだ。その母は三年前に九十三歳で亡くなったが、その折、私は母の教え子の方達が書いてくださった文を、「追憶 花と鳥と歌と」(補遺)と題した小冊子にまとめた。その中の中野ノブ子さんが寄せてくださった文には、早世した兄邦彦のことが書かれてあり、中野さんの妹さんでいらっしゃる木幡さんの書かれた、上記の手紙文が引用されていた。
 中野さんは鎌倉女学院をご卒業後すぐに教員免許を取られ、鎌倉市立第一小学校に勤められた。教職についてまもない頃、父兄参観日があり、そのときに赤ん坊の私を抱き、兄邦彦の授業参観に出かけた母に廊下で偶然出会われ、その際の印象深かった思い出を書いてくださったのである。これも偶然だが、邦彦の同級生の中に中野さんの妹さんの木幡さんがおられた。この絵手紙や中野さんの書いて下さった文のお陰で、記憶になく、実在感のなかった兄が、急に身近な存在として浮び上がってきた。
母は亡くなる前の数年間、アルツハイマー病を患い、次第に記憶が消失していく中で、よく浄明寺(鎌倉)にいる小さな子供はどうしているか、としきりに私達周囲の者に尋ねていたが、その子が誰であるかを尋ねても分からず、いろいろ推測したが分からないままになっていた。しかし、中野さんの文を拝見して、それは邦彦のことだったに違いないと確信した。
 同じ小学校二年のクラスに邦彦のことをよく覚えておられたもう一人の方があった。その方は今井(旧姓尾ヶ井)赫(かく)さんで、邦彦が描いた絵を憶えておられるという。なんでも緑色の背景に、牛乳瓶が描かれた絵で、周りに赤を施した絵だったという。今井さんは当時その絵を見て興味を持たれ、家に戻ってその絵をまねして描いてみた、というのである。牛乳は当時は貴重なものだったが、病床の邦彦のために両親が無理をして与えたものだったろう。
 今井赫さんはその頃、戦争直前から戦後にわたって当時鎌倉に滞在していたスイス人の画家、コンラッド・メイリ氏から、大人の弟子達に混じって絵を習っておられた。メイリ氏は間もなくスイスに戻られたが、メイリ氏のお弟子さん達はその後、三十年にわたって毎年銀座で「明里展」として合同の展覧会を催されていた。しかし、ほとんどの方たちが既に八十歳を越え、亡くなられた方も多く、これが最後になるだろうということで、去る二月に「コンラッド・メイリ(1895-1969)と明里会展」がメイリ氏ゆかりの地、鎌倉の生涯学習センターギャラリーで開催された。中野さんのお誘いを受けて、去る二月十九日(日)、展覧会の最終日にギャラリーを訪れ、今井赫さんを含む明里会会員の方々の絵を鑑賞すると共に、中野さんと引地(旧姓木幡)弘子さん、そして今井赫さんとも初めて直接お目にかかる機会を得た。六十年近くの歳月を経て、「母の死」が取り持ってくれた、「早世した兄」ゆかりの方々との出会いに、「奇縁」以上の不思議な縁(えにし)を感じたことであった。